幼い恋とその結果

  昨日のマジック番組をぼんやりと思い浮かべているのと同じぐらい、『転校生が来た』という、学校生活上の一大イベントを、ぼんやりと捉えていた。わあ、トランプの柄が同じ。わあ、コインがあんなところから。わあ、転校生が来た。そのような感じだ。僕はあまり日常生活に変化を求めない。だから、僕はその女子生徒に目をくれることもなかった。転校生であるというだけの、他の女子生徒と同じ生徒だからである。なんとなく、黒板の端に書かれた日付を眺めながら、名前や、前いたところなどの話を聞き流していた。頭には何一つとして残ることはなかった。川の流れの運ぶ石がそこに留まらないように、僕にとって軽い記憶は、そのまま、意識の端の端、いやむしろ、外にまで弾き飛ばされていた。だから、先生が僕を指差したとき、すなわち記憶がその質量を一気に増したとき、意識の流れがせき止められるのを感じて、体が思わず強張った。いや、正確にいうと、先生が指差したのは、僕の席の隣だったのだが。
「前田さんは草摩くんの隣よ」
 確か昨日まで隣にはイスと机すらなくただの空白でしかなかったのだが、朝来てみると、そこには椅子と机が置かれていた。つまり、そういうことだったのだ、と意識の内側ぎりぎりで理解した。
 前田と呼ばれた転校生は、わかりましたとひとつ元気に返事をすると、僕の隣、窓際の席へ近づいてきた。他の生徒の、もの珍しそうな視線が、前田さんを追従する。
「えっと……草摩くんだっけ」
 その言葉が自分に向けられたものだと気づくのに、そう時間は必要なかった。はにかむ前田さんに、僕は、口元だけで笑顔を作り、ああよろしく前田さん、とだけ返事をした。
「草摩くんは、何かテレビ観る?」
「全然観ない」
 涼やかに、きわめて事務的に返事をしたというのに、前田さんは嬉しそうに笑う。僕は、そこまで嬉しいようなことはなかったのに。

 授業の合間合間の休み時間に、僕の席の隣には人垣ができた。前田さんはそれなりに人好きのする性格であるようで、既に数人の人とはあだ名で呼び合っているらしい。まあ、僕には関係ない。僕は彼女とあの挨拶以降会話らしい会話は何もない。男女であるから、そういう状態であっても、周りが訝しんだりすることもない。僕は、僕の席に寄ってくる友達とだけ会話をする。そういう十分が過ぎると、五十分の授業がまた始まる。
 それが数回続くと、すぐに、給食の時間がやってきた。隣の席であるから、机を給食の形に動かすと、前田さんと向き合う形になる。なんとなく、僕は前田さんを見ることなく、淡々と給食の準備をしていた。転校したばかりなので、前田さんはせっせとクラス中を駆け回り、皿を配っていた。なかなかに使命感のようなものがある子である。

「草摩くんはさあ」
 給食を食べている最中に、前田さんに話しかけられた。何かな、と精いっぱいの笑顔で受け答える。
「昨日のマジック番組観た? あ、テレビ観ないんだっけ」
 ああうん、観たよ、と頷いた。そんなことで嘘をつく必要も意味もないだろう。前田さんは少し驚いたように目を丸くした。
 昨日あったマジック番組とは、日本で今一番の人気があるマジシャンがメインパフォーマーの特別番組だ。二十代前半とまだ若々しさのある彼は、メディア露出もそれなりに多く、その精悍な顔つきとすらりとした背丈はモデルとなっていてもおかしくないほどの美形であった。女子生徒はこぞって彼のファンを名乗っている。
「すごかったよね」
「えっ、前田も見たの、昨日の」
 隣の席の──つまりいつもの並び方なら前の席の男子生徒、笹原が話に食い込んできた。すると前田さんは、うん、と笑顔で頷いた。キャッチボールの相手が変化したのを感じとり、僕は目の前のスープに集中する。
「笹原くん、だっけ?」
 笹原は、返事をする代わりに言葉もなく頷き、話を続ける。
「俺が一番すげーって思ったのは、やっぱ、手の中にあったトランプが花瓶の中から出てきたやつかな!」
「ああ」前田さんは歯を見せて笑う。「あのスプーン曲げるのとか、どうやってやってるのかなあ。ねえ、草摩くんもそこ見た?」
 会話から離脱したと思っていた僕は、前田さんに話しかけられ、少しだけ、心臓がいつもより早く動いたのを感じた。
「ああ見たよ。そうだね。不思議だね」
 あのマジシャンは、手も何も使わずに、スプーンを曲げていた。ハンドパワー、と称し、右手でスプーンの右手を持ち、左手でスプーンの頭に力を与えるような演技をすると、じわじわとスプーンの頭が曲がり、やがて、ボロリと頭が落ちてしまったのだ。椿が落ちるところみたいだ、と僕はそれを観ながら思っていた。あまりにも綺麗に落ちるものだから、そうらしい、と感心していた。
「前田、前田」隣から笹原の軽薄な声が聞こえる。「見てこれ」
 前田さんの名前を呼ぶ笹原は、頭が九十度に曲がったスプーンを手に持っていた。僕と前田さんが話している間に曲げたのだろう。それを見た前田さんが楽しそうに笑う。
「やだ、笹原くん。ハンドパワーの物真似?」
 前田さんは冗談めかして、やだ、と言っていたが、僕は本当に嫌だと思った。さっきまでそれを口に運んでいたのに、それを素手で触って手で曲げるだなんて、どうかしているとしか言いようがない。
「ねえ笹原くん。もう一回やってよ」と、前田さんは、教卓の、食器かごにかかったいくつかの未使用のスプーンの連なりを指差した。
 しかし笹原も、さすがに何本も曲げていたら怒られることを知っているのだろう。誤魔化す様に言った。
「ごめん前田、魔力が切れた」
 言い訳としてはちょっとだけ上手い。

「昨日のマジック番組と言えばさあ」
 五時間目の休み時間になっても、給食の時の話を引きずる笹原は、僕や前田さんに向かって言った。
「最後にさ、簡単にできるマジックの種明かし、やってたよなあ」
 たしか、コインを右手に持っていると見せかけて、左手からコインを取り出すというマジックの種である。笹原は、それを真似するように、百円玉を両手で覆い隠したが、百円玉は笹原の手からスルリと抜け落ち、ちゃりーん、という情けない音を立てる。
「ぷっ、笹原くんったら」
「笑うなよー。昨日一晩、練習してたんだけど、これ意外と難しいんだぜ」
 笹原と前田さんはどうやら、結構仲が良くなっているようだ。感心なことだ。一日で打ち解けるなんて、僕にはちょっとできそうもない。そう思いながら、僕は両腕のシャツをまくり上げ、百円玉を一枚手に持った。
「お、笹原も挑戦するのか? 両手に持ってないとダメなんだぜ、それ」
「……」
 僕は何も言わず、両手に何もないことを二人に見せつけてから、左手でコインを多い隠す。
「どっちにある?」
「左に決まってるだろ?」
 と言いながら、笹原は、僕の左手を指差す。前田さんも、うんうん、と同意するように頷いた。僕は内心にやにやしながら、両手を上にして、広げて見せる。その手の平に、コインは一枚も落ちてない。
「え?」
 前田さんが不思議そうに目を丸くして、身を乗り出してきた。笹原も、なんでなんで、とわめきたてた。僕は、笹原のポケットを指差して、一言。
「そこそこ」
 僕の指摘に、慌てて笹原がポケットを漁る。そこからは、先ほどのコインが、そっくりそのまま、現れた。
 笹原と前田さんが、信じられないというような目つきで僕を見る。僕は、それをあくびを噛み殺しながら眺めていた。

     *

 開店休業状態のファミリーレストランの中で、ぼんやりと、フリードリンクコーナーのグラスなど磨いて暇をつぶしていた。俺は、このファミリーレストランでアルバイトなどしているのだが、どうにも最近客足が悪い。いや、そもそも、商店街の裏路地などに存在するこの店の立地が、まず、間違えているというのだ。
「よーう」
いつも、奥のスタッフルームでダラダラと座っている店長が、珍しくスタッフルームから出てきて、俺に気軽にあいさつした。
「どうも」
「うんうん、頑張ってるみたいだねえ。感心、感心っと」
 女店長は、タバコを一本取りだして火をつける。俺はあまりタバコが好きではなかったので、しかめっ面でそれを眺めていた。口に咥え、大きく息を吸い、吐き出している。清浄なファミレスの空気をタバコの煙が濁す。
「私の肺の事は考えてくださらないんですね店長」
「まあね。いいじゃないか。多少汚れてるぐらいの方が。部屋も人もね」
 臓器に関しては、そういう論は通用しないと思うのですが、と思ったけれど、口にはしなかった。あの店長の事だから、怒られるに決まっているのだ。
「暇だねえ」
「場所移転しません?」
「忙しくなりたいのかい?」
「こうやって、誰も使わないグラスを無為に拭くよりは余程」
「……」
 店長はおかしそうに笑った。なんですか、と少しむすりとして返事をしてみると、いやいや、ちょっと思い出してね、と、遠い目をした。
「あたしの昔の知り合いに似てるようで、似てない」
「似てるようで、似てないんですか」
「ああ。聞いてくれるかい?」
 質問系であるのに、有無を言わせないような口ぶりであった。返事を待たずに、女店長は喋り始める。
「あたしはね、こんなナリしてるだろ、そりゃもう、昔から、自分に自信があって仕方がなかったんだよ。ちょっと色目を使ってみたら、コロッ、てな感じで、あたしに惚れていくのが、面白くて仕方がなかった。まあ、見た目以上に、可愛くない子供だったねえ、あたしは。
 あたしの父は、いわゆる転勤族ってやつさ。いっぱい転校して、転校して、転校した末に、あたしはある中学校に辿り着いた。まあ、そこで、運命的な出会いっていうのをしてしまったってわけさ。
 なんていうか、隣の席が、その人だったんだ。そいつがあんまりあたしに興味なさそ〜、にどっか見てるわけだからね、ちょっと、ちょっかいかけてやろうと思って、ぶりっ子して接してやったのに、そいつ、あたしに興味持つどころか、拒絶すらし始めたんだ。一人が好きなんだろうね。
 まあ、正直言って、そいつはかっこよかったんだよね。野暮ったい眼鏡はしてたけど、それが似合ってたというか。だからかなあ、あたし、ちょっと本気になっちゃってね。必死に毎日毎日アプローチしてさ。はっきりいって、脈はあると思ってたんだよ。けっこういい感じのムードになることも何度かあったんだよ。でも、駄目だった。卒業式の日に、好きだったから付き合ってほしい、って言ったけど、あっさり振られちゃった」
「あっさりですか」
 女店長は、もう齢四十は超えているだろうが、それでもその顔の整っているのがわかる程度には、美人であった。大人の色気というか、そういうのを感じる。今でそれなのだから、当時など、推して図るべきだ。それを、あっさりと振ったという。
「ああ。……そうだねえ、いつ本気で惚れちゃったんだろうね。多分、初めてあいつにマジックを見せてもらった時かなあ」
「マジック?」
「そう。あいつ、その時有名だったマジシャン……何て言ったっけね、そいつによく似てた。ていうか、多分兄弟か何かだったんだよ、きっと。あたしらの知ってる、子供だましみたいな手品じゃなくって、ほんとに、あれは魔法としか言いようがなかったね。あたしらには絶対にできないようなことを平然とやってのけるのさ。その種はいくら問いただしても教えてくれなかった。そこも、魅力だったんだろうなあ、ミステリアスで」
「物言わぬような人が好きですか」
「うーん、本心では、そうかもね。まあ、ともかく、あたしはそいつの手品に、まんまと騙されちゃったってわけさ」
「手品は人の思い込みとかを利用するものですから」
「だからあたしは、手品が嫌いなんだよねえ。八つ当たりかもしれないけれど」
 店長は、どこからともなくトランプを取り出し、ソリティアなどに興じ始めた。
「あんたにはないのかい、そういうの」
「ありませんね」
「女っ気のない男だねえ」
「女は嫌いなので」
 それは本心だ。嘘で自分を覆い隠す女性という存在が、嫌いであるというよりは、苦手であった。そしてきっとこの人にも、俺は欺かれ続けている。
「そういうあんたこそ、嘘つきだね」
「そんなことは」
「好きになった人なんかいないだなんて、そんなことはありえない、そういう目さ、今のあんたは」
 俺は黙り込んだ。返事をすることが叶わなかった。この店長に見透かされた、というショックが、結構強かった。
「……」
 店長は期待に満ちた瞳で俺を見詰める。勘弁してくれ。誰にも踏み入られたくない領域なのだ。だけれど、それはきっと店長にとっても同じだ。昔が大変自意識過剰で、いまそれを恥じているからと言って、自分を愛する気持ちがその時から如何ほど消え去ったというのだろうか、そんな自分の汚点を自分に晒すのは、彼女にとって、どれほどの恥辱であろうか。
「……はあ。まあ、そうですね。私、小さいころはいじめられっこだったんですよ」
「ああ、なんとなくわかるよ」店長が愉快そうに笑うのを俺は不愉快そうに見つめた。
「失礼な人ですね。……それで、まあ、彼女がうちの幼稚園に転入してきてですね、その、私が彼らにいじめられて泣いてた時に、いじめっこたちを追い払ったわけですよ。女子に助けられたっていう、それがあんまり情けなくって、また泣いてしまいましてね。あんまり泣くからその子も怒って、さらに泣いて」
「ふんふん」
「それで宣言しちゃったんですよ、大きくなったら僕が君を守るって」
「ははあ、ありがちだねえ」
 まさにその通りだから、そう指摘するのだけは勘弁してほしかった。
「お祭りの出店で指輪買ってプレゼントしたりとか……まあ、積極的だったわけです。そしたら、今度は、私が転出しなくちゃいけなくなりまして」
「あらら」
「それで、まあ、転出する際に、私は彼女に何か大切な……お揃いのキーホルダーをプレゼントしたんです。大きくなったら迎えに来る、結婚しよう、っていうプロポーズを添えて」
「子供ならではの発想だねえ。で、それ以降会ったことは一度もないって感じ?」
「ああいや」
 俺は、その先こそが自分の恥であると思っていた。店長の言うとおりであったら、どれだけましだったか、と今でも思う。
「大学で再会したんです」
「へえ、意外。運命的だね」
「そうですよね? だけど、彼女は、大きくなった私に関して、あまりに幻想を抱きすぎていました」

    *

 彼女と再会したのは、三年前の四月ごろである。
 女性はあまり変わらないという言葉が額面通りだと理解したことはそれが初めての事だった。大学で、同じ学年で、同じ学部であるという、なんと喜劇的だろう、と、他人事のように考えていた。しかし、何十年も離れて暮らしていたのに、どう話しかけたらいいものか、そもそも相手がその話を切り出してこないあたり相手は自分に気づいてないのでは、と悶々としている丁度その時に、研究で、彼女と同じ班になる機会があった。チャンスだと思ったけれど、一歩踏み出すことができなかった。だけれど、自分は、彼女が携帯に、自分が小さいころにプレゼントした、ぼろぼろのキーホルダーをつけているのを、見逃してはいなかった。
 研究について、ファミレスで話し合っているときの事だ。
「──ってさ、好きな人とかいるの?」
 同じ班の女性がふいに始めた、恋愛の話に思わず耳を傾ける。彼女は、え、うーん、と困ったように笑っていた。
「まあ、いるかな」
 数十年ぶりに聞く彼女の声は、少し、大人びていた。えー、ウソー、という、他の女の声が耳に入らない。
「遠距離?」
「遠距離、かな。うん」
「どんな人、どんな人?」
「……あー」
 彼女は曖昧に笑った。俺は、携帯でニュース記事を読むふりをしていたのだが、ニュースの内容は、まったく頭に入ってこなかった。どんな見出しがあったのかすら今では全く覚えていない。
「あんまり覚えてないんだよね。もう、スッゴイ、小さいころの人だから」
「えー、そんなのでずっと好きなの? ピュアじゃん!」
「うん……なんでだろうね。あたしもよくわかんないけど、多分、その人以外好きになれないよ。あ、でも、待って。どんな人になってるのかなって想像するのも楽しいんだよ?」
「え、どんなどんな?」
 楽しそうに会話をする彼女の顔をふと見上げると、その表情が、あまりにも恋に染まっているものだから、それきり、彼女の顔を見ることすらできなかった。彼女が、長年にわたってそれを持続させるためにひたすら加工と添削を続け、もはや原型を留めてはいない偶像に恋をしていることが、ありありと伝わった。それはもはや、彼女の想像内の自分などではなく、想像内の他人であることは、疑いようがなくて、そのあとの会話については聞かないつもりで、席を立った。
 そのあと、二人で作業する機会にあったのだが、もはや自分の正体を話す気にもなれず、ただ、初対面として接していた。しかし、彼女が、ふいにこんなことを口走るのだから、目も当てられない。
「あ、ねえねえ、前から思ってたんだけど、きみってさ」
「何」
 ぶっきらぼうに返事したことを、すぐに後悔したが、彼女はあまり気にしている様子もなかった。
「あたしと会ったことある? 昔の知り合いに、似てて」
 どきりと心臓が鳴った。頬が紅潮などしていたらもはや目も当てられない。俺は、なるべく平静を保つようにして、答えた。
 自分でも今でも後悔するほどの返事をした。
「……いや、初対面だけど」
 今となっては、自分に似ているらしい昔の知り合いとやらが、彼女が恋する人物の事を指しているのかすら分からない。

    *

「はは、下らない子だね、その子は」
 俺の話を聞き終えての第一声がそれだった。店長は笑う。
「結局、その子は、信じすぎたのさ。あんたが裏切ったんじゃない。あの子が信じたのが悪い。人は信じるから裏切られるんだからね」
 その店長の言葉が、やけに的を射ているように思えた。信じなければ、裏切りという傷を負うこともないのに、人は誰かを信じようとする。そのことに、店長は、いらだっているように見えた。
「信じられない人と関わることなんて私にはできません」
「若いねえ」
「まあ、そうですよね」
 店長よりは年下なのだから、自分は、店長よりは、物事を知らないとしか言いようがなく、反論の余地も残してはくれなかった。仕方のないことだ。結局、それは、ずるい大人のぼやきでしかなかったのだから。
「ねえ」店長がからかうように言った。「あんた、けっこうあたしのタイプだよ」
「そうですか、そりゃどうも」
 それを本心だと思うほど自惚れてはないので、そうとだけ返すと、やっぱり似てる、と笑って返された。
「その子に、言っちゃえばよかったのに。お前の恋してるやつはもういないぞ、俺は俺だぞ、ざまあみろ、みたいな感じで」
「私に、彼女を傷つけることはできませんよ」
 結局俺もまた、偶像の中の彼女を今でもずっと引きずっているだけであるのだろう。自分は、偶像と、本物が、相違ないものであったので、よかったが。きっと彼女の中の偶像と本物は、あまりにも食い違いすぎている。
 彼女を傷つけてまで、それを得ることはないだろう。仮に、それによって、彼女も永遠に得られなくなってしまったとしてもだ。
 店長がおかしそうに笑った。
「あんたも大概、馬鹿な理想主義者だね」
「そうかもしれないですね」
 客足どころか、大きなガラスの外には、人ひとりすら歩いてはいない。平日の昼間の、寂れた商店街の路地裏である。仕方がないかもしれない。
 しばらく続いた静寂を打ち破る様に、ふいに、店長が口を開いた。
「ねえねえ、ちょっと試しにあたしと付き合わない?」
「年上趣味はないので結構です」
 それは極限まで本心だった。さすがに四十の女性と付き合うつもりはない。せいぜい、二、三、年上ぐらいだろうか。いや、そもそも、今後女性と付き合う気など微塵もないのだが。しかし、なんだロリコンか、とありえない曲解をされてしまった。ありえない。
「そうか。残念だねえ」
「残念だなんて微塵も思ってない癖によく言いますよ」
「ほんとにそう思うかい?」
「思います」
「ほんとに?」
 しつこく聞く店長に、ちょっと苛立ってしまったのかもしれない。
 本当の本音を口にすることにした。
「貴女を騙したマジシャンの代替はごめんです」
「あたしもあんたの偶像の代替はごめんだねえ」
 と、その時、厨房に設置されたテレビが先日放送された特番の再放送を始めた。その中では、今人気沸騰中の中年マジシャンが、マジックを披露していた。コインを消して他人のポケットから出す、見飽きたようなマジックであったが、どんなに考えても、それの種を見破ることは、俺にはとうていできそうもなかった。店長は懐かしそうに目を細めていた。四十代で、年相応の渋さを持つそのマジシャンの、精悍な顔つきに見惚れているようだった。そして、頭にかぶっていたシルクハットから白いハトが飛び出して、オープニングは終了する。
 丁度その時、どこからか現れた男女のカップルが、カランコロンと軽快に扉のベルを鳴らして店に入ってきた。本日の客、数号目だ。ほら、仕事だよ、働きな、とだけ店長は言い捨てると、スタッフルームへ消えてしまった。
「……いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「はい」
 幸せそうに腕を組む男女のカップルに対して、何か感慨を感じるようなこともなく、それは、どこまでも仕事でしかなかった。
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