成り上がれなかった男

 川の橋にもたれ掛かった男──高瀬和馬は、国章が刺繍された腕章を引きちぎり、工業排水で淀んだ流れに放り投げた。もう、その腕章に用は無い。経済力と政治力が弱くなってきたこの国では、軍人すら切り捨てられる。捨て駒にしてもらう権利すら剥奪されるのだ。伸びた前髪をいじりながら、高瀬は人目も憚らず大きくため息をついた。
「真面目にやってたつもりだったんだがな……」
 呻くように呟く声は、冬の渇いた空気に紛れて散ってしまった。誰の耳にも届くことは無い。
 ほんのわずかな間肩を落とし、続いてぐいっと背伸びをした瞬間、ぐう、と腹が鳴った。職は無くても腹は減る。ほんの僅かに残った金のはいった袋を手に、高瀬は商店街のある北へと歩いて行った。

   *

「……また米の値段が上がってやがる……」
 貯蓄をしなかったのが間違いだったのか。先人たちの、『今の時代、貯蓄するのは三〇を超えてからでいい。二〇の間はめいっぱい遊べ』という言葉を額面通りに受けとった高瀬は、貯蓄を一銭たりともしてはいなかった。この手にある金が消えれば、あとは雑草でも食べていくしかない──。取り乱してもおかしくない状況にも関わらず、いやに頭が冷えていた。これからは上司からの圧迫もない。同僚との競争もない。むしろこれは新しいチャンスを神がくれたのかもしれない。せっかくだ、種でも買って農業でも始めるか、などと考え、育て方がこれっぽっちもわからない小松菜の種を手に取る。
「ねえ、それは何?」
 横から声が聞こえる。聞き覚えのない少年の声だった。自分に話しかけているとは思わず、そのまま種の品定めをしていると、不機嫌そうな声がさらに聞こえる。
「ねえ、ちょっと聞いてる?」
「……俺か? ったく、うるせえなあ……」
 と、高瀬は不機嫌そうな声をあげ、小松菜の種を棚に戻して声の主の姿を確認する。
 ……と同時に、高瀬は思わず大声をあげそうになった。
「しっ、静かにして。店の中でしょ」
「……え、ええ。しかし、貴方は」
 言われるがままに声を落とし、子供の顔を見直す。自分と彼は、知り合いではない。しかし、自分は彼を知っている。テレビに映し出される顔。新聞に大きく載る顔。この国に彼を知らない人間などいない。
「こ、こんな所に、おひとりでおられるなんて」
「歩くときは顔も姿も隠しているから大丈夫だ。それよりも、それは?」
「これは……小松菜の種です」
「小松菜? ……ああ。最初はそんなんなんだな。ふ〜ん……教科書では見たことがある、そういうの。それをどうするの?」
「私は……その、野菜を育てようと、そう思いまして」
「ふ〜ん、めんどくさいことしたがるものだ」
「……そうしないと生きていけませんので……」
 少年は、ふ〜ん、と鼻を鳴らした。これで三度目だ。
「そ、そんなことより、早く戻られたほうがいいのでは……?」
「何を言っているんだ。僕こそこうやって街の様子を見なきゃいけないだろ? それともお前も政府のじじいと同じことを言うのか? お前はそんなことを言える立場だと思っているのか?」
「……いえ」
 ぐ、と言葉を詰まらせた高瀬は、苦々しい声で否定する。すると、それに気分を良くしたのか、少年は悪戯を思いついたような笑顔で言った。
「……決めた。おいお前、ちょっと僕に付き合えよ」
「し、しかし」
「お前は、そんなことを、言える立場だと、思って、いるのか?」
 先ほどと全く同じことを。しかし、違う調子で……言葉の節々をぶつ切りに、高瀬に言い聞かせるように、わざとゆっくりと言う。高瀬は、わかりました、と呟く。すると少年は満足そうに笑ったのだった。
「じゃあどこに行こうか。どこがいい、ここの向かいにあるのは魚屋だね。その隣の店は花屋だし、二つの店のちょうど間あたりにある露天商にはアクセサリーが売ってある。お前が決めろよ、どこがいい?」
「どこ、と言われましても……」
「そうだね……まあ僕も遊んでいるわけではないし、アクセサリーはないか。まずは、魚屋にでも向かおうとしようか。さあ、行こう」
 名前も聞かず、少年は走り出す。眼鏡と一般学生の帽子に学生服、そしてマントも忘れず身につけ、魚の並ぶ店先に走っていく。
「……どういうことだ? 失業した日にあんな人を俺によこすなんて……神様ってのがいるとしたら、一体何を考えてるんだ……」

 大陸の大国に開国を迫られ、仕方なく開国したのが四百年前の話。開国と同時に流れ込む大陸文化に、順応しようとする人と、しようとしない人がいた。順応しない者は、これまでの文化を守るために、一度は開国したが、もう一度、外国人を追い出し、完全に鎖国をした方がいいと主張した。順応した者は、いやその方法ではこれから発展していく世界に対応していくことは難しい、このまま大陸文化を取り入れるべきだと主張した。意見はどうしようもなく対立し、その結果、小さな島国は、関東北部から北陸南部にかけて線を引き、そのまま南北二つに分かれてしまった。北側はこれまでの慣習を守る国として。南側は大陸文化を取り入れる国として。
 それから百年。まだ北の国は鎖国を続けていた。南の国はというと、さまざまな思想や文化の入り乱れる中で、ある思想が生まれた、いや、輸入されてきた。民主主義という思想だ。人民の人民による人民のための政治。その思想は、一部の人間にとっては、癌に等しいものであった。そこでも再び意見の対立が起こる。その対立が続いたのが、およそ五十年。人数のケタの違いもあり、いよいよ民衆が政府に打ち勝とうというとき。政府は、都のあった関東一帯を放棄した。民衆は放棄された土地、関東で独立を宣言した。列島に存在する国は三つになった。そして残された南の国の遷都した先は京都。こうして生まれたのが、北の国、大八島神国。関東の国、日本国。南の国、大和帝国の三国だ。
 そしてそれから三百年たった今。高瀬は大和帝国軍に所属していた。世界的に経済が芳しくなく、国内政治も傾き、国家が乱れ始めたときに、一つの大事件が起こった。皇帝陛下の崩御だ。政府が揺れたその事件の後に、皇帝として擁立されたのが、若干十一歳の先代の長子。勝気に吊りあがった目つき。美しく輝く黒髪が印象的な美少年である。そんな皇帝陛下には、困った癖があった。放浪癖である。
 そう、少年は、この帝国の現皇帝陛下、叶(かな)明(あき)殿下であったのだ。

   *

「ねえほら見てよ。こんな小さいけど、よくできてる車だね。凄いな、こんなのを人が作れるのか」
「か、買いますか……?」
「下民にたかるほど卑しくは無いよ。それに見ろ、この値段。他の商品とはケタが違う。よほど高級品なのかな。驚きだ。その袋の中にこれを変えるだけのお金が入っているとは思えないけどな」
「……ま、まあ」
 わざわざ口にすることはないものの、高瀬は、内心、いやみながきだな、と愚痴を零していた。そんなことを口にすればなにが身に降りかかるか分かったものではない。それにそれは事実だ。生まれおちた環境が違う彼に言うのは、負け惜しみのようなものだ。
「いいなあ……」
「……お小遣いとかはないのですか」
「親がないのにあるわけないだろ。生きてる間にも、こういうのも買ってもらえなかったし……」
 叶明が欲しがっている車、所詮はミニカーである。大量生産の出来なかった数一〇〇年前とは違うのだ。今高瀬は給料も貰えずに放りだされたばかりなので金が無いだけで、きちんと働いている間であれば、ひと月の給料の一部ですらないぐらいの金額だ。
今は何も縛るものはいないのだから、何故と言おうとして、高瀬は、口を噤んだ。陛下の横顔が思いつめたようであったのだ。
「……なあ、お前」
「なんでしょうか」
「………………。なんでもないや。さあ、行こうか」
 その笑顔はどこか強張っている。高瀬は、何も言うことができなかった。
「しかし、時間は大丈夫でしょうか」
「え? ……ああ! もう四時か。そろそろ帰らないとさすがにね。ありがとう。気付かなかった。今日は一日御苦労だった。それなりに楽しかったよ。じゃあね、また遊んでくれよ」
「……了解しました」
 高瀬が深く礼をすると、叶明はけらけらと笑いながら、皇居のある方角へ一目散に駆けて行った。
「……また、か」
 高瀬は、数えすぎて枚数を覚えてしまった金を頭に思い浮かべて、嗤った。
「……果たして俺に『また』があるかな?」

   *

 しかし。予想に反して、『また』は意外にも早く訪れた。次の日に、高瀬が商店街をぶらぶらと散歩していると、少年は姿を現したのだ。
「何? なんでお前はこんな朝っぱらから暇そうにしているの? 『にーと』か何か?」
「……そんなところです」
「へー。そりゃ悪いことを聞いたね。お金はどうやって稼いでいるの?」
「これは……自分がもともと持っていたお金です。貯蓄が無いおかげでこれで最後ですが……」
「……ちなみにニート歴は?」
「今日で二日目です」
「うわあお」
 叶明は、そっか、そっか、と呟いて見せた。
「あれか。お前、軍に所属していたんだな。うん、そんな話を聞いたよ、結構な数が軍職を追い出されたって聞いた。お前みたいな若いのでも追い出されるんだ」
「人事を決めるのは上ですから……」
「なるほどなるほど。そりゃ難儀だねえ。ああ、だから野菜がどうこう、って……なるほど。ねえ」
 叶明の口調はあくまで明るく、高瀬を茶化すようであった。しかし、彼は顔を俯かせてしまっていたため、その表情をうかがうことはできなかった。少なくとも、高瀬には、彼が口調の通り笑っているようには思えなかったのだ。
「それで、育てる野菜は決めた?」
「あ、はい。まずはカイワレダイコンからと」
「かいわれって言うと、豆腐とかに乗っている奴だね?」
「そうです。簡単らしいので。とりあえずしばらく部屋は使えるので、そこで芽を出させてから、外で光を浴びせて色をつけるんですよ」
「へえ……あれって、植木鉢とかで育てられる?」
「いいえ、瓶などで育てます」
 叶明は、ふうんと鼻を鳴らし、『そうだ』と両手をぽんと叩いた。肩に提げた鞄を漁り、空き瓶を取り出す。
「これは?」
「貰いモノの洋菓子が入っていた瓶だ。これでかいわれを育てるんだろ? 育ったら僕にも見せてほしい」
「いえ……しかし、陛下から物をいただくなんて……」
「誰もあげるなんて言ってない。貸してあげる」
 叶明は、笑顔で。
 瓶ぐらい家にもある、と高瀬は思ったが、躊躇しながらも、高瀬はその瓶を受け取り、そこで彼とはそのまま別れた。瓶は円筒状で、かいわれを育てるには最適だろう、高瀬はそう思った。

   *

 十日後、高瀬の家のベランダには立派なカイワレダイコンがあった。試しに一本引き抜いて、根を落とし、口に含む。しゃきしゃきという小気味いい音を一緒に、喉の奥に押し込んだ。何の変哲もない、ただのカイワレダイコンである。陛下に貰い受けた瓶に立派に育ったカイワレダイコンではあったが、味に変わりは無かった。
高瀬は、鞄にカイワレの生えた瓶をつっこみ、街に繰り出すことにした。
あの少年は、『カイワレダイコンを見たい』と言ったのだ。

   *

 商店街を歩いても、彼が見当たらなかったため、高瀬は、今日見せることは諦めた。このカイワレは潔く食べ、また新しく育てればいいか、と考えた彼は、家に帰ることにした。
 と、家に向かう道の途中、小さな空き地に差し掛かった。半年前までここには家が建っていた。しかし、そこの家主は職を失い、家財道具と家と土地を売り払い、どこかへと行ってしまった。名前はなんだったか、と思いだそうとしたが、どうにも思い出せる気配は無かった。そんな空き地に、見知らぬ白い影があった。純白の帽子に、純白の軍服を着た、若いというよりは幼い少年の後ろ姿だ。
「……そんなところで、何をしているんだ?」
 少年は、ぎくりと肩を震わせると、ゆっくりとこちらに振り返った。高瀬は、ぎょっとして、目を剥いた。振り返ったその顔は、自分が今日捜し歩いた顔。叶明皇帝陛下。
「し、失礼をお許しください!」
「あ、お前だったのか。いいよ別に。気にしてない」
「……こんな所で、何を?」
「ああ」
 すこし躊躇って、叶明は呟いた。
「父さんはね、すごい人だったんだ」
「はい?」
「他人に厳しくて、自分にはもっと厳しくて、いっぱい人を従えていて、なにより強かった」
「……ああ、」
 高瀬は前陛下の素晴らしさを知っていた。彼は、その威光を知っているからこそ、兵士になることを志願したのだった。
「だから……だから、だから父さんは、あいつらに。……僕はもう、今は皇居で独りぼっちなんだ。僕はもう、あいつらの人形として生きていくしかない。もう決まってしまった」
 高瀬は、彼の言わんとする所をなんとなく理解した。この聡明そうな皇帝陛下とはいえ、たかが十一歳。大人の力を借りなければ、政治の事がわかるだろうか。経済の事がわかるだろうか。それならば、幼い皇帝を補助する存在が必要だ。かつては摂政などと呼ばれていた、それ。
 父を失った少年の心はいかほどだろう。齢十一にして国を任されたその心は。
 叶明は高瀬に顔を見せないようにか、背を向け、俯いてしまった。
 高瀬は、何と言葉をかけていいか分からず、鞄の中から瓶を取り出した。カイワレの詰まった瓶である。
「……だから僕は、考えたんだ。僕は僕の身の回りの人ぐらい、自分で決める。だから……その……」
 叶明は、もじもじと口を動かす。何と言えばいいか。考えはまとまらない。……背後からは、何の反応もない。
「ねえ、聞いてる?」
 と、叶明が振り返ると──そこに人は誰もいなかった。
 挨拶もなく、高瀬はどこかへ消えてしまった。
 その代わりに、高瀬の立っていたところには、見覚えのある形の瓶が置いてあった。
「……これは……かいわれ? もう、できたんだ──」
 叶明が瓶を開けると、そこには群れをなすカイワレがいた。しかし瓶のふたを考えなしに閉めてしまっていたため、カイワレの葉には、早くも黄ばんでいるのがあった。
 彼の間抜けっぷりに微笑を浮かべながら、ふと、彼の名前を思い出そうとして、それが叶わないことに気づく。
「──ああ。そういやあ、あれの名前も聞けて無かったかな」
黄色い葉のカイワレをためらいなく引き抜き、口に放り込んだ。

   *

これでよかったのだ。高瀬は、電気もつけていない暗い部屋の中でそう思った。思ったことを口にするその元気すら、今の高瀬にはなかった。
父を失い国を任され、そんな状態の彼と親しくなろうものなら、そういう話にもなってくるだろう。近くに、何か話ができる人がいてほしい──そう願うのも当然だ。今の彼にはきっと友人もいなければ、味方もない。
だからといって、高瀬にはそんな彼に味方をする勇気すらなかった。たかが、兵士で、しかも、今は失業者。本来は話すことすら許されないその立場の違いを、今、ようやく思い出した、そんな気がして、高瀬は、そっと目を閉じた。
きっと契機を逃さなければこのどん底から成り上がることすら出来た。国を一つ、掌握することすら不可能ではなかっただろう。しかし、彼はその契機を確かに見付け、手にする機会を得たが、それを放棄した。彼は、成り上がることはできなかったのだ。



◎「怪蟲」の主人公である高瀬と叶明の出会いの話。怪蟲を書こうと思い至るだいぶ前に書いたものなので高瀬のキャラクターがだいぶ違いますが、出会いに関しては概ね同じ流れです。怪蟲本編でコチラのリメイクのようなことをする予定。
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